楼門と桜 茨城百景・茨城観光百選・茨城の湧水 イバラキノート

楼門と桜

 

楼門と桜

 

土浦城跡および楼門

 

県指定史跡 第1号
土浦市中央1丁目
昭和27年(1952)11月18日 指定
管理者 土浦市

 

土浦城は、一名亀城ともよばれ、平城で、幾重にも巡らした濠を固めとする水城でもあった。城は、城跡にしていされている本丸・二の丸を中心に、三の丸・外丸のほか、武家屋敷や町屋を含み、北門・南門・西門を結ぶ濠で囲む総構えの規模をもつものであった。
江戸時代の建物としては、本丸表門の櫓門・裏門の霞門、二の丸と外丸の間に移築された旧前川門(高麗門)があり、復元された建物としては、東櫓・西櫓がある。
戦国時代には、城主は若泉氏、信太氏、菅谷氏と変遷したが、織豊期には結城秀康の支配下に入った。江戸時代の城主は松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏と変わったが、土屋政直が再び入城して、以後明治維新に至るまで土屋氏(9万5000石)の居城となった。
明治以降、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所、自治会館などに利用されたが、現在は二の丸跡の一部とともに亀城公園となっている。

 

平成11年(1999)6月
土浦市教育委員会
土浦市亀城ライオンズクラブ寄贈
土浦亀城ライオネスクラブ寄贈

案内板より

 

 

本丸土塀

 

土浦城本丸の土塁上には、鉄砲狭間のついた兵がまわっていたことが江戸時代の絵図に描かれています。当時の記録には、塀の高さなどに加え、大筒狭間や石落としなどが塀に付属したことも記されています。
また、近年の本丸土塁の発掘調査によって塀の基礎地業である砂利敷遺構が発見され、塀に葺かれていた瓦の形状なども判明しました。また、櫓門の両軸の柱にはかつて塀が取り付いていた痕跡が残り、その構造や塀の厚さなども判明しました。
こうした調査の成果により、土塀下地に漆喰仕上げの土塀を復元しました。江戸時代の記録のとおり、塀の高さは東櫓脇の一部が七尺半、その他は七尺としました。塀に付属する防御装置として東櫓の脇には石落とし、櫓門の脇には大筒狭間を設けました。

案内板より

 

 

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