息栖の津・渡船場跡 常陸利根川方面から 茨城百景・茨城観光百選・茨城の湧水 イバラキノート

息栖の津・渡船場跡 常陸利根川方面から

 

息栖の津・渡船場跡 常陸利根川方面から

 

看板より

息栖の津・渡船場跡

 

「息栖の津」は古い時代からあった。今から約七百年の昔、応安7年(1374)記の香取神社文書「海夫注文」にその名が見える。当時、この流域の支配権を持つのは香取神社で、下総国側の24.常陸国側の50の津を支配した。「息栖の津」も利根川を往来する舟船の船着場とし、また魚労の拠点としての網引・釣魚に大きな役割を果たしていたようだ。この時代には海水が入り、この辺りでもサケは勿論のこと、タイ・ヒラメ・ハマグリ等が獲れていたとの記録が残っている。
江戸時代になると、江戸の文人墨客、庶民の、東国三社(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)を巡拝する旅が盛んになった。日本橋小網町を小船で出発し、途中徒歩もあるが、下総国木下河岸(千葉県印西市)より木下茶船に乗り、利根川を下って三社に向かった。記録には木下河岸を出る船数は、安永年間(1854〜)には年平均4400〜4500隻にも達している。単純計算で1日12隻もの船が出航している。香取神社から鹿島神宮へ向かう途上、息栖神社へ立ち寄る慣例であった。名のある文人墨客が息栖の地を踏んでいるが、芭蕉は、当時の息栖神社の主神を
「この里は 気吹戸主の(いぶきどぬし) 風寒し」
と詠っている。また「東海道膝栗毛」で有名な十返舎一九も訪れ、
「いつまでも 息栖の神の名にめでて 水にうききの 瓶ぞ久しき」
と詠っている。
明治時代に入っても三社詣の旅は盛んであった。明治の徳冨蘆花は明治33年(1900)に「自然と人生」を刊行した。その中「利根の秋暁」と題する随筆で、息栖河畔の柏屋に投宿し、朝がた村人が
「河水を掬(く)んで嗽(くちそそ)ぎ、顔を洗い、それから遥かに筑波の方を向いて、
掌を合わせて拝んでいる。あ々実に好い拝殿、と自分は思った。」
と清流が流れる当時の息栖河岸を描いている。さらに明治期からは日用雑貨品の購入、また 莚や干鰯等出荷等で、対岸の小見川との経済交流がますます盛んになってきた。
明治13年(1880)の記録によると、人・牛馬・車ともに5銭の渡し賃で、息栖、小見川両岸でそれぞれ渡船を経営したと言われている。昭和7年(1932)には両岸有志の共同出資による「水郷息栖小見川渡船株式会社」が設立され渡船業務を行っている。
昭和28年(1953)には同者の営業権の譲渡を受けて、小見川町町営渡船となり、1日8回の運行を行った。この年度の乗客延人数は19万6千人と記録されている。昭和30年代は、第一小見川丸から第六小見川丸まで六隻を保有し、経済交流だけではなく、千葉県側の高校への登校の交通手段としても大きな役割を果たしていた。
昭和48年(1973)小見川大橋の完成により、幾世紀にわたる水上交通の拠点としての津・渡船場の役割を終えた。

 

平成22年 神栖市教育委員会

 

 

看板より

おきすの津(港)と碇

 

大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物思わざらむ(柿本人麿)
今よりはぬさとりまつる船人の 香取の沖に 風向うなり(藤原家隆)
広大な内海であったために、香取の海といわれた古代の水郷の中で、おきすの社と呼ばれた水の神、息栖神社の所在する息栖の地は、おきすの津(港)と呼ばれて、周辺の陸地との交通上の船着場として、大きな港としての役割を果たしていた。
徳川時代になると、幕府の拠点江戸と東北との交流が盛んになり、その水上輸送路は、江戸川・利根川・水郷地帯・銚子川口から鹿島灘といった航路が選ばれていた。これらの長距離輸送には、当然大型船舶が用いられ、その往復途上、息栖の津に立ち寄っては、息栖の神々に航路の安全と、家族の安泰とを祈願した。この碇はそうした祈りをこめて、息栖の神に献納された物であろうが、それが何船によってのことかさだかではない。けれども潮に晒され、鉄片のはがれ落ちた碇の姿から、道の奥(東北)と板東(関東)との間にたって、物資輸送に励まされた船人の、遠い昔を偲ぶ手がかりとなっている。

 

帆柱ぞみをつくしなる大船の かとりの浦の見るめからねど
(利根川図誌より)

 

神栖市教育委員会

 

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