史跡 石下城跡 常総市 茨城百景・茨城観光百選・茨城の湧水 イバラキノート

史跡 石下城跡

 

史跡 石下城跡

 

周りは住宅地となっている。

碑文が私には、面白かった。

 

史跡 石毛城跡

 

石毛城は、天文元年(1532年)豊田城主四郎政親が、宗祖将軍将基の遺霊を祭祀させ、近年豊田領への蚕食押領甚だしき、下妻多賀谷氏の抑え、豊田本城の前衛として構築し、石下の地(1万貫)を分封し、次子次郎政重を拠らしめたと伝えられている。

 

-天文3年織田信長生きる-

 

豊田家宗祖将基(赤須四郎)は、桓武天皇第5皇子葛原親王八代の後胤常陸大掾平重幹の第3子で、前9年の役(1051年)に源頼義、義家(八幡太郎)父子に従軍し阿武隈川の先陣乗りの功を立て康平5年戦功により豊田・岡田・猿島の三郡を賜る。さらに後三年の役(1083年)にも従軍、功により常陸多賀郡の地(現北茨城市)を賜り、孫政綱を拠らしめたと伝えられている。(現在北茨城市に豊田城跡あり)
豊田氏其の勢盛んなるとき、豊田33郷、下幸島12郷、筑波郡西部を領有し、11代基安は南常陸に侵攻し、弟基久を牛久に分家(南北朝争乱の頃)する等、常総野4隣を圧するものがあった。結城家は重臣多賀谷氏を下妻に配し小田・豊田の迎えとした。やがて戦国時代に突入、下克上・新興勢力の台頭あり、とみに勢力を増大した多賀谷氏は主家結城氏より独立を図り、豊田領侵略の機を窺う。
豊田氏は自衛上、先ず隣城手子丸(現豊里町)の菅谷氏と婚し東方の憂いを除き、多賀谷氏に対する備えとして17代元豊は三男家基に、八幡太郎拝領の甲冑を与えて「これ、我家の至宝なり。今これを汝に伝う。袋畑は下妻の咽喉なり、この家宝と領地を死守せよ」と命じ、豊田領最北端の袋畑(現下妻市)に封じ、豊田本城の第一陣とした。
豊田家19代政親は常陸小田城主氏治の妹をめとり、親族大名として同盟関係に入り、さらに横堤東端、今の県立石毛高等学校(現在の地名館出)附近に出張館を置き備えた。
豊田氏必死の防戦にもかかわらず、多賀谷の攻勢激しく、豊田の旗下行田館(現下妻市)、下栗常楽寺(現千代川村)、総上の袋畑右京、四ヶ村の唐崎修理、長萱大炊、伊古立掃部、豊加美の肘谷氏等を相次いで降し、又小田の旗下にあった吉沼城を攻め城主原外記、其の子与五郎を殺し、さらに館武蔵守の守る向石毛城を攻め落す。
小田氏治を伯父とする石下政重は、元来その性勇猛にして、兄治親とともに豊田・石毛を併呑しようと来功する下妻多賀谷の大軍を永禄元年(1558年)長峰原(現豊里町)、蛇沼(現豊田)に迎え撃ち、小田氏の援軍を得てこれを撃退す。

 

-永禄3年今川義元、信長に討たる-

 

永禄6年下妻多賀谷軍の岡田、猿島侵攻に抗して、石毛政重は廻文す。古間木城主渡辺周防守をはじめとする岡田、猿島勢これに応じ、3400余兵を以って五家千本木(現千代川村)に布陣し5000余兵の下妻勢と激戦、勝利のうちに和睦(結城晴朝の仲裁)する等積極果敢なるものがあり、豊田本城の前衛としての責を善く果たす。
天正元年(1573年)再び攻め寄せる多賀谷軍を金村台(豊里町)に迎え撃ち、小田の援軍を得てこれを破る。

 

-この年甲斐の武田信玄卒-

 

多賀谷軍の攻勢激しく、豊田城・石毛城風雲急を告げる。小田・豊田・石毛は力を合わせ戦うも、守るに精一杯で新進気鋭の多賀谷氏を打倒するほどの気概はなかった。

 

-天正2年小田城落城-

 

常総の諸豪、風を望みて佐竹・多賀谷の膝下に屈し情勢悪化を辿る。天正3年9月13日、あたら勇将政重も石毛城中にて脳卒中の為、敢えない最後を遂げ、戦乱一期の花と散る。
豊田城主治親の落胆一方ならず、城の守り諸事の手配を家臣に命じた。宗祖将基以来500有余年、さしも栄えし豊田家も命運の尽きる処か、弟政重の死に送れること1ヶ月余り、治親も又、叛臣の謀に遭って毒殺され、豊田城は多賀谷軍に乗取られる。治親夫人と幼い二子は真菰に身を包み、小船に乗って高須賀館(現谷田部町)経て、武蔵柿木(現埼玉県草加市)に逃れたという。
その夜、豊田家忠臣血路を開き、急を石毛城に告ぐ。
多賀谷氏は時を移さず、重臣白井全洞を将に700余兵を以って石毛城に攻め寄せる。
豊田・石毛勢250余頑強にして攻めあぐみ、一旦若宮戸常光寺迄退き、援軍500余を加え数日間、死闘を繰り返す。
豊田・石毛勢形勢非なるを以て、相謀り7歳の幼君太郎正家の安泰と主殺しの大罪人飯見大膳の引渡しを条件に下妻に降りる。

 

-この年長篠の合戦あり-

 

石毛太郎正家は伯父東弘寺忠園に養育され仏門に入り、のち、石毛山興正寺中興の祖として天寿を全うした。寛永12年(1635年)6月19日歿、法号石毛院傑山宗英大居士。
石毛城は多賀谷氏一族拠る処となったが、天正13年、多賀谷家の内紛により、築城54年にして廃城となり、後顧の憂いを除くため焼却されたと言われている。

 

-天正10年織田信長本能寺にて自刃-

 

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに多賀谷氏西軍(石田方)に与するを以て翌年徳川家康に改易追放され、石毛地方は徳川の天領となり、多賀谷氏の豊田・石毛領支配27年にして終る。
現在の八幡宮は、慶長20年(元和元年)旧臣等宇佐八幡宮を勧請し、城跡に創祀したものと伝えられている。

 

-この年大阪城落ち秀頼母子自刃す-

 

落城の光陰いま見る400余年の星。所縁の苗裔数ありと雖も、過ぎたるは多くを語らず。城地は一望住宅地化して、城跡の面影、老榧の残照土塁の1端に窺い知るのみ。嗚呼、運行流水ゆきて帰らず、知るはこれ極月除夜の鐘の音、諸行無常と響くなる哉。

 

昭和59年11月 八幡神社大例祭日
石毛町長 松崎良助 撰

石碑より

 

 

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